羽田に着いてみると、やっぱり山形よりもはるかに暖かい気がする。
昨日は飲み会でたらふく食ったせいか、その後に延々と事務所で書類仕事をしていたせいか、アパートに帰る車の中でも寝てしまいそうなぐらいだった。もちろん風呂も入らずに気付いたら朝だった。暖房のスイッチをいれてガンガンにつけたまま寝ていたようなので、起きたらノドはカラカラだ。
朝飯はいつもの通りこんなもの。
昨日といい今日といい、在宅医療とはなんなのかいろいろと考えさせられることが多々あった。
在宅医療とは、単純にいえば積極的な治療をする段階でない患者に対して、家でできる範囲の治療をしながら余命を安楽に過ごすということだ。
こういう段階の患者にとって、医療と介護の線引きは極めて難しい。
病院で働いていたときによく患者の家族にいわれたことなのだが、寝たきりで衰弱して食事も摂れなくなった患者に対して
「むせて誤嚥性肺炎になってもいいから口から食べさせてください」
これは病院に入院していたらムリな話だ。誤嚥のリスクがわかっていて経口摂取をさせるのは病院では許されない。そういう患者の栄養管理をするなら胃瘻か中心静脈栄養かということになる。だが、老衰の患者にとってはいずれの方法も根本的な解決にならない。単純化すると
病院→積極的な治療→中心静脈栄養
積極的な治療とは言い換えればつまり、管だらけになっていくということだ。治ることのない老衰というものに対して、それを行うことがいいことかどうかは別として、病院にいる限りはそういった方法をとらざるを得ない。
むせてもいいから口から食べさせてくれというのは、医療ではなく介護だ。病院じゃなく家か施設でやってくれということになる。
その一方で、在宅医療ならどうするか。在宅でどこまでやるか。ここの線引きはものすごく曖昧だ。
さっきの食えない患者を在宅で診ているとして、食べない水も飲まないという状況でそのまま放置するのか。多少なりとも何かするとしたら、腕や足の末梢点滴ができる限りであれば、点滴をして水分を補給するということになる。
ただここで、在宅や施設でどこまでそういった処置をやるべきかということも考えねばならない。いろんな処置ができるに超したことはないが、病院と同じレベルのことをやるべきではない。
中心静脈のルートを入れろといわれれば、レントゲンも撮らずにブラインドで入れることはできるだろう。エコーがあるから胸水穿刺だってできる。だからといって在宅でそういう処置をするべきかどうか。
一方で、病院の医者からしてみれば、癌のターミナルの患者を在宅医療に送ったのに、疼痛で苦しがっているとか吐血したとかでいちいち病院へ送り返されてきたら、在宅医療にした意味が全くない。家で看取るために在宅へ送るのだから。そういう観点からすると、在宅で輸血をするとか、点滴ポンプで麻薬を使うとかその程度のことまでは在宅医がやらないと家で看取ることなんてできない。
だが、そういうちょびっとだけ高度な手技というのは、僕自身ができても周りのスタッフが対応できないと、とてもとても家でやれるものではない。
この「どこまでやる?」という認識がみんな違うのだ。
ちょっと具合が悪くなったら「在宅じゃ診れませんから」といって病院送りにするような在宅診療所だったら、全く存在価値がない。どこまでが在宅、という明確な線引きを示してくれれば、スタッフ教育ももっと楽になるのに。
いやぁまだまだ疲れる日々が続きそうだ。
ラフランスはまだまだ残っている。毎週のようにこれを食べられるのは幸せなことだ。
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